ワシントンD.C.(ワシントン・ディーシー、英: Washington, D.C.)は、アメリカ合衆国の首都である。
法律上の正式名称は「District of Columbia」(コロンビア特別区)だが、「The City of Washington」(ワシントン市)と「Territory of Columbia」(コロンビア領域)が統合されて成立した歴史的な経緯から、一般にはワシントン・コロンビア特別区(英:Washington, District of Columbia)、これを省略してワシントンD.C.と呼び、「Washington、the District」、または単にD.C.とも通称する。日本語ではワシントン市、首都ワシントン、または単にワシントンと呼ぶことも多い。
中心部には高さ169メートル(約555フィート)のワシントン記念塔がある。同国東海岸、メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置する。狭隘だが、国際的に強大な政治的影響力のある世界都市であり、金融センターとしても高い重要性をもつ。
"D.C." は "District of Columbia"(コロンビア特別区)の頭文字で、南アメリカのコロンビア共和国と同様、アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスにちなんだ名である。日本語では、このワシントンD.C.のことは単に「ワシントン」と呼んでも、ワシントン州のことはワシントンD.C.との混同を避けるため常に「州」を付けて「ワシントン州」と呼ぶのが一般的である。漢字による当て字は華盛頓で、華府と略す。
コロンビア特別領(Territory of Columbia)は1790年7月16日に創設された。ワシントン市(The City of Washington)はこのコロンビア特別領内の独立した地方自治体の名称だったが、1871年の連邦法によりこの領域全体を統括する単一の地方自治体が設立され、ワシントン市とコロンビア特別領が統合されてコロンビア特別区 (District of Columbia) が成立した。
ポトマック川の北岸に位置し、南西をバージニア州に、その他の方角をメリーランド州に接している。2010年度国勢調査による人口は601,723人[1]で全米24位だが、労働時間帯には近郊からの通勤者により人口100万を超える。ワシントンD.C.を中心に、メリーランド州、バージニア州北部、ウェストバージニア州の最東部2郡を併せた地域を一般に「首都圏」または「メトロポリタン」と呼んでいるが、その人口は5,582,170人(2010年国勢調査)[1]で、全米7位である。また北東に約65キロメートルの地には人口620,961人(2010年国勢調査)を抱えるメリーランド州の最大都市ボルチモア[1]が位置している。このボルチモアといわゆる首都圏をあわせたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏[2]の人口は8,572,971人(2010年国勢調査)[1]を数え、全米4位の規模である。
アメリカ合衆国憲法1条により、各州とは別に、恒久的な首都としての役割を果たすため連邦の管轄する区域が与えられている。アメリカ合衆国三権機関(大統領(官邸「ホワイトハウス」)、連邦議会(議会議事堂)、連邦最高裁判所)が所在し連邦機関が集まる他、多くの国の記念建造物や博物館(スミソニアン博物館など)も置かれている。
同市のナショナル・モールにおける博物館群は質・量ともに世界でもトップクラスであり、観光資源にもなっている。ポトマック川の入り江であるタイダルベイスンの畔にある桜の木々は、アメリカ合衆国内で有数の桜の花見の名所である。
172か国の大使館に加え、世界銀行、国際通貨基金(IMF)、米州機構(OAS)、米州開発銀行、汎アメリカ保健機関(PAHO)の本部も置かれている。労働組合、ロビイスト、職業組合など、各種団体の本部もある。
連邦議会がワシントンD.C.における権限を有している。連邦議会に関してワシントンD.C.は、下院に本会議での投票権を持たない市代表(代議員)を選出しているものの、上院議員の議席は与えられていない。ワシントンD.C.が州であると仮定し他の州と比較すれば、面積ではロードアイランド州に後れて最下位、人口では最下位から2番目(最下位はワイオミング州)であるが、人口密度では1位、州民総生産では35位、また黒人の比率では1位であり、国全体のマジョリティ(非ヒスパニック系白人)とマイノリティとは反転している。
首都としての機能を果たすべく設計された、計画都市である[3]。
2011年現在、ワシントンD.C.においては死刑制度が廃止されている。2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第10位の都市と評価されており、アメリカではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴに次ぐ第4位であった[4]。
詳細は「ワシントンD.C.の歴史」を参照
アメリカ合衆国憲法第1条第8節第17項によって、連邦議会にアメリカ合衆国の首都を設立する権限が与えられた。同条によれば、「ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地としての地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)」が認められた[5]。ジェームズ・マディスンは、1788年1月23日の『ザ・フェデラリスト』第43篇で、合衆国の首都は、その持続と安全のため、各州からは別個のものとすべきだとして、連邦の管轄する区域の必要性を説明した[6]。1783年には、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に対し、兵士らの暴動により攻撃が加えられたことも、合衆国政府が安全に配慮する必要性があることを強調することとなった[7]。
憲法は新たな首都の場所を特定していなかったが、マディスン、トーマス・ジェファーソン及びアレクサンダー・ハミルトンの3人は、1790年、首都を南部に置くことを条件に、合衆国が州の発行した戦時負債を肩代わりするとの合意に達した(後に1790年協定として知られる。)[8]。
1790年7月16日、合衆国首都設置法(The Residence Act)により、新しい恒久的な首都がポトマック川河畔に置かれることになり、詳細はジョージ・ワシントン大統領により選定されることとなった[9]。当初の形は、合衆国憲法により認められていたとおり、一辺が10マイル(16 km)のダイヤモンド型で、100平方マイル(260 km2)であった。新首都建設のためメリーランド州とバージニア州が領土の一部を割譲し、新しい「連邦の市」はそのうちポトマック川の北岸に建設されることとなった。もっとも、同じ100平方マイルの地区内には既に二つの独立した自治体(1749年に設立されたアレクサンドリア市[10]と、1751年に設立されたジョージタウン市[11])があった。1791年9月9日、この連邦の市はジョージ・ワシントンに敬意を表してワシントン市と命名され、この100平方マイルの地区全体はコロンビア区 (Territory of Columbia) と名付けられた[12](コロンビアは、当時合衆国を指す詩的な名称として使われていた言葉である。)。連邦議会は、1800年11月17日、ワシントンで最初の議会を開催した[13]。
1801年のコロンビア特別区基本法 (The Organic Act) により、正式にコロンビア特別区が編制され、アレクサンドリア市、ジョージタウン市、ワシントン市を含む連邦の管轄地域全体が、連邦議会の排他的支配下に置かれた[14]。さらに、特別区内で自治体に組み込まれていない領域は、二つの郡 (county) に組織された。すなわち、ポトマック川北岸のワシントン郡と南岸のアレクサンドリア郡である。同法制定後は、特別区内の市民はメリーランド州やバージニア州の住民ではなくなり、議会の代表権もなくなることとなった[15]。
米英戦争の中、1814年8月24日から25日にかけて、イギリス軍がアメリカ軍によるヨーク(現在のトロント)焼き討ちの報復として首都を焼き討ちした。議会議事堂、財務省、ホワイトハウスはこの攻撃の中で焼かれ、破壊された[16]。ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た[17]。
1830年代、特別区の南にあるアレクサンドリア郡は、より内陸に位置しチェサピーク・オハイオ運河に面したジョージタウン港との厳しい競争などにより経済的に落ち込んでいた[18]。当時、アレクサンドリアは奴隷貿易の主要な市場であったが、奴隷廃止論者が首都における奴隷制を終わらせようとしているとの噂が流れた[19]。富をもたらす奴隷貿易ができなくなることを避ける目的もあって、1846年、アレクサンドリアのバージニア州への返還の可否について住民投票が行われ、可決された。同年7月9日、連邦議会は、特別区のうちポトマック川より南の領域(約100km2)をバージニア州に返還することに同意した[18]。この土地は現在はアーリントン郡に属し、アレクサンドリア市の一部をなす。この結果、ワシントンD.C.は、頂点を北に向けた正方形のうち、南西部の川に区切られた区画を除いた形をなすことになった。なお、その4年後、1850年協定により、特別区内における奴隷貿易(奴隷制そのものではない)が禁止された[20]。
ワシントンは、1861年の南北戦争勃発までは小さな町であった。南北戦争の結果、合衆国政府は大きく膨張し、それにより町の人口も著しく増大した。解放奴隷の大量の流入もこれに寄与した[21]。1870年までに、特別区の人口は、13万2000人近くにまで増えた[22]。しかし町の成長にもかかわらず、ワシントンの道路は未舗装であり、基本的な衛生設備もないなど、条件が非常に悪かったため、首都を別の場所に移転することを提案する連邦議会の議員もいた[23]。
1871年のコロンビア特別区基本法 (the Organic Act of 1871) により、連邦議会は特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した[24]。この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた[25]。1873年、ユリシーズ・グラント大統領は、同委員会の最も有力なメンバーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)[26]、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ[23]。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン (McMillan Plan) を待たなければならなかった[27]。
特別区の人口は、しばらくの間比較的安定していたが、1930年代の世界恐慌ではフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策立法により、ワシントンの官僚が増加した。第二次世界大戦で政府の活動は更に増大し、首都における政府職員の数も増加した[28]。1950年までに、特別区の人口は80万2178人というピークに達した[29]。
1961年、アメリカ合衆国憲法修正第23条[30]により、ワシントンD.C.市民に初めて大統領選挙の選挙権が与えらえた。コロンビア特別区全体に対して、人口の最も少ない州に与えられる、選挙人3人の定数が確保された。
公民権運動の指導者キング牧師が1968年4月4日に暗殺された後、特別区(主に北西地区のUストリート、14番ストリート、7番ストリート)で暴動が発生した。暴動は3日間続き、1万3000人以上の連邦警備隊とコロンビア特別区州兵がようやく鎮圧に成功した。多くの店やその他の建物が焼かれ、多くが1990年代後半に再建されるまで荒廃したままであった[31]。
1973年、連邦議会はコロンビア特別区地方自治法(Home Rule Act)を制定し、特別区に公選制の市長と議会を導入することとした[32]。1974年、市長の公選が行われ、1975年、行政委員会委員長であった民主党のウォルター・ワシントン (Walter Washington) が特別区初めての公選の市長、かつ特別区初めての黒人の市長となった[33]。
1979年、マリオン・バリー (Marion Barry) が市長に選ばれ、4年間の任期を3期連続で務めた。しかし麻薬の使用が噂され、3期目の任期半ばの1991年にはFBIのおとり捜査によりクラック・コカイン所持使用で現行犯逮捕され、公判で禁固6か月の実刑判決を受けた。この不祥事でバリーは次の選挙には出馬しなかった[34]。
1991年、次に市長となったシャロン・プラット・ケリー (Sharon Pratt Kelly) は、アメリカの大都市で初めて市長になった黒人女性である[35]。1994年、ケリーの任期が満了すると、バリーが市長に返り咲いた[34]。1998年、エール大学卒の弁護士、アンソニー・ウィリアムス (Anthony Williams) が市長に選ばれて2期務め、2007年1月からは現在のアドリアン・フェンティ (Adrian Fenty) が市長を務めている[36]。
1995年までに、市は債務超過のため支払不能になりかけていた[34]。これを受けて、連邦議会はコロンビア特別区財政管理委員会を設立し、市のすべての支出を監督させることとした[37]。特別区は、2001年9月に財政管理権限を回復し、同委員会の活動は中止された[38]。
2001年9月11日、テロリストがアメリカン航空77便をハイジャックし、ワシントンD.C.郊外のバージニア州アーリントンにある国防総省(ペンタゴン)に航空機を突入させた。ユナイテッド航空93便もホワイトハウスまたは連邦議会議事堂のいずれかを標的としていたが、同機はペンシルベニア州シャンクスヴィル近くで墜落した[39][40]。ペンタゴンへの攻撃が行われた場所には、2008年9月11日、ペンタゴン記念館がオープンした[41]
[編集] 市域
ワシントンD.C.は、全部で68.3平方マイル(177 km2)の市域を有し、そのうち61.4平方マイル(159 km2)が陸地、6.9平方マイル(18 km2、10.16%)が水面である[42]。特別区は、当初100平方マイル(260 km2)の面積を有していたが、1846年に南の一部をバージニア州に返還したため、この面積となっている。現在の市域は、メリーランド州から割譲された領域のみから成っている[43]。そのため、ワシントンD.C.は南東・北東・北西をメリーランド州に、南西をバージニア州に囲まれている。特別区内には、三つの大きな天然の河川がある。ポトマック川、アナコスティア川、ロック・クリークである。アナコスティア川とロック・クリークはポトマック川の支流である[44]。
合衆国首都設置法は、ワシントン大統領に、東はアナコスティア川の河口までの範囲で新しい首都の正確な位置を選ぶ権限を与えた。しかし、ワシントン大統領は、区の南端にアレクサンドリア市を含むようにするため、この連邦の領域の境界を南東に動かした。1791年、連邦議会はワシントン大統領の選んだ区域を認めるため、合衆国首都設置法を修正し、これによりバージニアから割譲された領域も含まれることとなった[45] 。この場所は、多くの利点を有していた。ポトマック川は特別区まで航行可能であり、船による交通が可能であった。また、アレクサンドリアとジョージタウンの既成の港は、市にとって重要な経済的な基盤を提供した。さらに、内陸の特別区は、北西部領土に近かった[45]。1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコットとベンジャミン・バネカーが特別区の境界を調査し、1マイルごとに境界石を設置した。その多くが今も残っている[46]。
一般に伝えられるところとは異なり、ワシントンD.C.は沼地を埋め立てて建設されたわけではない[47]。確かに二つの川とその他の小川に沿って湿地が広がっていたものの、特別区の領域のほとんどは農地と樹木に覆われた丘から成っていた[45]。特別区内で、自然の状態で最も高い地点は、海抜125メートルのテンリータウンである[48]。最も低い地点は海水面と同じポトマック川である。ワシントンD.C.の地理的な中心点は、北西地区の4番ストリートとLストリートの交差点付近に位置する[49]。
[編集] 自然
アメリカ合衆国国立公園局は、ロック・クリーク公園、チェサピーク・オハイオ運河自然歴史公園、ナショナル・モール、セオドア・ルーズベルト島、アナコスティア公園など、ワシントンD.C.の自然生育地のほとんどを管理する[50]。国立公園局による管理外の重要な自然生育地としては、農務省の管轄である国立森林公園があるのみである[51]。ポトマック川の上流(ワシントンD.C.の北西)にはグレイト・フォールズ(Great Falls)がある。19世紀には、輸送船の交通がこの滝を迂回できるようにするため、ジョージタウンに端を発するチェサピーク・オハイオ運河が用いられた[52]。
1965年、リンドン・ジョンソン大統領はポトマック川を「国の恥」と呼び、1966年の清流回復法(the Clean Water Restoration Act)の必要性を訴える材料とした[53]。現在では、この川は活気のある暖水漁業の場となっており、自然に繁殖したハクトウワシも川岸に戻った[54]。高度に都市化した景観にもかかわらず、ワシントンD.C.は、都市における野生生物の管理、外来種の管理、都市流水の回復、都市流水における水エコロジーなどの研究の中心地となっている[55]。国立公園局の都市エコロジーセンターは、この地域における専門的知見と応用科学を提供する場となっている[56]。
[編集] 気候
ワシントンD.C.の気候は、ケッペンの気候区分によれば温暖湿潤気候 (Cfa) であり、これはアメリカの中部大西洋岸諸州のうち海域から離れた地域に典型的に見られる気候である。四季がはっきり分かれており、春と秋は温暖で湿度も低いのに対し、冬は低温が続き、1年に平均420mmも降雪量がある[57]。冬の最低気温は、12月中旬から2月中旬にかけては零下 1 ℃(30 °F) くらいになることが多い。まれではあるが、猛烈なふぶきが2、3年ごとにワシントンD.C.を襲い、最低気温は−15度を下回る。最も激しい嵐は、ノーイースターと呼ばれ、これはアメリカ東海岸全体に影響を及ぼすのが普通である[57]。夏は高温多湿になる傾向があり、7月と8月の日中最高気温は平均 30 ℃前後(80 °F台)である[58]。夏には高温・多湿という組み合わせのため、激しい雷雨が非常に頻繁に発生し、場合によってはこの地域に竜巻を発生させることもある。
ハリケーン(熱帯低気圧)ないしそれが温帯低気圧化したものが、夏の終わりから初秋にかけてこの地域を通過することが時々ある。ワシントンD.C.は内陸に位置していることもあって、ハリケーンはここに来るころには勢力が弱まっていることが多い。しかし、満潮・高潮・雨水が合わさることによって引き起こされるポトマック川の氾濫は、ジョージタウンやバージニア州アレクサンドリア近くにまで大規模な財産的被害をもたらすことが知られている[59]。
記録されている史上最高気温は1930年7月20日と1918年8月6日の 41 ℃(106 °F) である。史上最低気温は1899年2月11日の零下 26.1 ℃(−15 °F) であり、これは1899年の記録的猛ふぶき (the Great Blizzard) の時のものである。32 ℃(90 °F) を超える日数は平均36.7日であり、氷点下になる夜は平均64.4日である[57][58]。
ワシントンD.C.の気象データ 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年間 |
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史上最高気温 (℃) | 26 | 29 | 34 | 35 | 37 | 39 | 41 | 41 | 40 | 36 | 30 | 26 | 41 |
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平均最高気温 (℃) | 6 | 8 | 13 | 19 | 24 | 29 | 31 | 30 | 26 | 20 | 14 | 8 | 19 |
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平均最低気温 (℃) | -3 | -1 | 3 | 8 | 13 | 18 | 21 | 21 | 17 | 10 | 4 | 0 | 9 |
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史上最低気温 (℃) | -26 | -26 | -16 | -9 | 1 | 6 | 11 | 9 | 2 | -3 | -12 | -25 | -26 |
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降水量 (mm) | 81.3 | 66 | 91.4 | 71.1 | 96.5 | 78.7 | 91.4 | 86.4 | 96.5 | 81.3 | 76.2 | 76.2 | 993.1 |
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出典:The Weather Channel[60] |
[編集] 都市設計
ワシントンD.C.は計画都市である。ワシントン市の設計は、ピエール・シャルル・ランファンの労によるところが大きい。ランファンはフランス生まれの建築家・技師・都市設計家であり、当初、軍の技師としてラファイエットとともにアメリカ植民地に来た。1791年、ランファンはバロック様式をもとに基本計画を作成した。これは、環状交差路から放射状に広い街路が伸びているものであり、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したものであった[61]。しかし、20世紀初頭には、開放された公園と壮麗な国の記念建造物というランファンの都市計画の構想は、スラム街や乱開発された建物によって損なわれてしまっていた。その中にはナショナル・モールの中の鉄道の駅もあった[27]。1900年、連邦議会は、ジェームズ・マクミラン上院議員率いる両院合同協議会を設置し、ワシントンD.C.の儀礼の中心地の美化に当たらせた。マクミラン計画として知られるこの計画は1901年に仕上がり、その中には連邦議会議事堂の敷地やナショナル・モールの景観再整備、新しい連邦の建物・記念館の建設、スラム街の一掃、全市を横断する新しい公園のシステムの構築が含まれていた。委員会から任命された建築家たちは市の本来の設計には手を加えなかった。建築家たちのなすべきことは、ランファンの意図したデザインの壮大な仕上げをすることであると考えられた[27]。
1899年に12階建てのカイロ・アパートメント・ビルが建設された後、連邦議会は建造物の高さを制限する法律(the Heights of Buildings Act)を可決し、連邦議会議事堂より高い建物を建ててはならないと宣言した。この法律は1910年に改正され、建物の高さが、面する道路の幅員に20フィート(6.1m)を加えた長さを超えないよう規制された[62]。今日、ワシントンD.C.の建物群のシルエットは低く広がっており、トーマス・ジェファーソンの、ワシントンD.C.を「低層で便利な」建物と「明るく風通しのよい」街路を備えた「アメリカのパリ」にしたいという願いに忠実である[62]。その結果、ワシントン記念塔がずっとワシントンD.C.で最も高い建造物のままである[63]。しかしながら、ワシントンD.C.の高さ制限は、同市で廉価な住宅が限られていることやスプロール現象による交通問題の発生の最大の原因であるとして、批判されている[62]。ワシントンD.C.の高さ制限を逃れるため、ダウンタウンの近くとしては、ポトマック川の対岸にあるバージニア州ロズリンに高層の建物が建てられることが多い[64]。
[編集] 街路
ワシントンD.C.は四つの地区(quadrant)に不均等に割られている。北西地区(Northwest)、北東地区(Northeast)、南東地区(Southeast)、南西地区(Southwest)である。各地区の境界を画す軸は連邦議会議事堂から放射状に伸びている[65]。すべての通りの名称には、地区名の省略形(NWなど)が付いており、その場所を明らかにしている。市内のほとんどの地域で、街路は碁盤目状に整備されており、東西方向の通りにはアルファベットで(例えばC Street SW)、南北方向の通りには数字で(例えば4th Street NW)名前が付けられている[65]。環状交差路から放射状に伸びる街路には、主に各州の名前が付けられており、50州すべてが名称の中に含まれている。ワシントンD.C.の街路の中には、特に注目すべきものがある。ペンシルベニア通り(Pennsylvania Avenue)は、ホワイトハウスと連邦議会議事堂をつないでおり、Kストリートには多くのロビー団体の事務所が入居している[66]。ワシントンD.C.には172か国の外国の大使館[67]があるが、そのうち57の大使館はマサチューセッツ通り(Massachusetts Avenue)の地区にあり、正式名称ではないが大使館通り(Embassy Row)として知られている[68]。
[編集] 建築
ワシントンD.C.の建築物はバラエティに富んでいる。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にある[69]。すなわち、ホワイトハウス、ワシントン大聖堂、トマス・ジェファーソン記念館、連邦議会議事堂、リンカーン記念館、ベトナム戦争戦没者慰霊碑である。これら6つの建築はすべて新古典主義、ジョージ王朝様式、ゴシック様式および近代建築のスタイルを反映しており、他のワシントンD.C.の主要な建物も同様である。特筆すべき例外としては、第二帝政様式によるアイゼンハワー行政府ビル(旧行政府ビル)やアメリカ議会図書館などがある[70]。
ワシントンD.C.の中心市街を離れると、建築様式はさらに多様化する。「オールド・シティー」(ランファンによって設計された地域)では、歴史的建造物は主にアン女王様式、シャトーエスク様式、リチャードソン・ロマネスク様式、新ジョージア王朝様式、ボザール様式、また様々なビクトリア朝様式で設計されている。オールド・シティーでは19世紀からのロウハウス(長屋)が特に目立っており、連邦様式や後期ビクトリア朝様式に従うものが多い[71]。ジョージタウンは、ワシントン市よりも先に建設されたため、この地域はワシントンD.C.の中でも最も古い建築物を誇る。ジョージタウンのオールド・ストーン・ハウスは1765年に建てられ、市内で最古の遺構となっている[72]。もっとも、この地域における現在の住宅のほとんどは1870年代になって初めて建てられたもので、当時の後期ビクトリア朝様式を反映している。1789年に創立されたジョージタウン大学は、周囲の建物とはさらに一線を画しており、ロマネスク様式とゴシック・リヴァイヴァル建築が融合した建築が特徴である[70]。
[編集] 人口動態
2010年の国勢調査によれば、ワシントンD.C.の居住者人口は601,723人で、2000年国勢調査の572,059人以来、増加傾向が続いている。これは50年来の減少傾向からの反転である[1]。他方、労働時間帯には、近郊からの通勤により、ワシントンD.C.の人口は推計で71.8%膨らみ、日中人口は100万人を超えるとされている[73]。周辺のメリーランド州やバージニア州の一部を含むワシントン首都圏は、2010年の国勢調査で約558万人の居住者を抱える[1]。ボルチモア及びその近郊も合わせたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏は、2010年の国勢調査では850万人を超える居住者人口を抱えている[1]。
以下にワシントンD.C.における1800年から2010年までの人口推移を表で、また1850年以降の人口推移をグラフで示す[74]。