この株式市場の崩壊と、金融引き締め政策(デフレ政策)は国際的銀行家によって予め計画されていたものだった。
1929年2月6日、イングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンはワシントンへやって来て、財務長官のアンドリュー・メロン(1855〜1937、財政家、メロン・ナショナル・バンク社長を経て、3代の大統領のもとで財務長官)と会談した。
1929年8月に連邦準備制度理事会は金利を6%に引き上げた。
その翌月、イングランド銀行は金利を5.5%から6.5%に引き上げた。
この時すでに株の暴落は準備されていたのである。
しかし、全ての大銀行は不況を成功裡に乗り切ったのだ。
J・P・モルガンとクーン・レーブ商会は両方とも、儲かりそうな株の事前通知を送る人々の「選別リスト」を持っていた。
この選別リストに載っていたのは、銀行家仲間、卓越した事業家、有力な都市の政治家、共和党及び民主党の全国委員会委員、及び外国の指導者たちであった。
彼らは来るべき暴落の通知を受け、ジェネラル・モーターズ、デュポン等のいわゆる一流の株を除いた他の株は全て売却した。
これらの株価も記録的な安値まで沈んだが、その後すぐに持ち直した。
以前の恐慌の時と同様に、事情通のウォール街と外国の相場師たちは、確実優良・一流証券をその実体価値の何割かの価格で手に入れることが出来た。
1929年の大恐慌では、マリーン・ミッドランド・コーポレーション、リーマン・コーポレーション及びエクイティ・コーポレーションのように、割安な債券や証券を手に入れた巨大な持株会社の形成も見られた。
1929年にJ・P・モルガン商会はスタンダード・ブランズという巨大食品トラストを組織した。
トラスト経営者にとっては、彼らの持株を増したり統合したりする無比の機会であった。
1920年の農業不況は、州法銀行や信託会社が連邦準備制度に加盟することを断ったために引き起こされた。
1929年の大恐慌は、アメリカのほとんど全ての権力を少数の巨大なトラストの手の中に集中するために引き起こされたのだ。
1929年9月1日にはニューヨーク証券取引所上場株式の時価総額は896億6827万6854ドルだった。
32年の7月1日にそれは156億3347万9577ドルとなった。
価値総額にして740億ドル、率にして29年ピークの実に82%が株式市場から消滅した。
それはアメリカ国民一人当たりにして616ドル、アメリカが第一次世界大戦に費やした戦費のおよそ3倍の大きさだった。
名目GNPは1929年の1031億ドルから32年には580億ドルに(44%)下落した。
同じ期間に工業生産は46%、国民所得は51%、企業売上は50%、輸出は36%それぞれ下落した。
30年に失業者は430万人に達し、1年後にはさらに倍加して800万人に及んだ。
この数字は6人に1人が失業していることを示す。
32、33年には遂に1200万人を越え、失業率は約25%に達した。
職を維持できた者も、賃金カットを甘受しなければならなかった。
製造工業部門では、29年に週当たり賃金25ドルであったのが、32年には17ドルまで下落している。
30年にセールスマンの賃金はほとんど半減した。
しかも、消費者物価指数は20%程度しか下がっていない。
そのため、大衆の購買力は低下し、不景気にいっそう拍車をかけた。
1930年から、大都会の路上に靴磨きや、りんご売りの姿が目立つようになった。
自動車工業都市デトロイトでは、職を失った労働者がプラカードを立てて職探しにやっきになっていた。
レストランの前には、残飯を求めて長蛇の列が出来た。ごみ箱をつつく姿も珍しくなかった。
メロンの皮、魚の頭、腐敗した肉ですら、探索の対象となった。
それにしてもこの大恐慌は正に狂気の沙汰としか言いようがなかった。
「飢餓と余剰の並存という信じられない光景がそこかしこに展開した。失業者たちはすりきれた洋服しか着ていないというのに、農民は1932年に1300万梱の綿の売れ残りを抱えていた。子供たちは段ボール底の靴をひきずって学校へ行っているというのに、マサチューセッツ州の靴工場は年の内六ヵ月は閉鎖しなければならなかった。食事に事欠く人間が大勢いるというのに作物は畑で腐っていた。
カリフォルニアでは売れ残りのオレンジに石油をかけて燃やしているというのに、アパラッチ山脈のある地方では村民のすべてがタンポポその他の雑草で飢えをしのいでいた。アイオワではとうもろこしが余りにも値が安いため、郡部の裁判所では暖炉の薪がわりに燃やされたが、干ばつに見舞われた北西部では多数の牛や羊や馬が餓死していた。酪農家が売れない牛乳を排水溝に流しているというのに、失業中の親は育ち盛りの子供に何とか一パイントの牛乳でも飲ませてやりたいと必死だった」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』岩波新書)
不況が長引き、有り余る豊富の中にこれほど多数の人が欠乏を感じているのは、社会経済システムが狂っているからに他ならなかった。
1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトが支払いを停止した。
金融恐慌はヨーロッパ全土に広がり、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ポーランド、そしてドイツの銀行が取り付けに見舞われた。
6月にはドイツのハインリッヒ・ブリューニング首相が、緊縮的政策を受け入れるよう国民に説得する目的で、ドイツは賠償支払い能力の限界に来たと言明した。
資金は争ってドイツから逃避し始めた。
ドイツの銀行は軒並み取り付けに見舞われ、ライヒスバンクは4日間で4億ライヒスマルクの金を失った。
6月20日にはフーヴァーが、他の重要な債権国が同調するならば、アメリカは32会計年度に期限の来るすべての国際債務の支払いを1年間猶予するというモラトリアムを提案した。
フーヴァー・モラトリアムには最終的には各国の同意が成立したが、それはようやく7月6日になってからであった。
その間に、債権者たちは先を争って流動性を確保しようとした。
ドイツではすべての銀行が短期間ながら閉鎖され、閉鎖が解かれた後も外国資金は凍結された。
ヨーロッパ大陸の金融恐慌は、イギリスに波及した。
ヨーロッパの小国の商業銀行が、ドイツの外国資金凍結によって失った金準備をポンドを売って回復しようとした。
イギリスからの資金引き揚げの速度はますます速まった。
9月21日、イギリスは金の支払いを停止して金本位制を離脱し、ポンドを切り下げた。
同時に今度はアメリカから金が大量に流出し始めた。
ドイツやイギリスで損失を蒙った各国の銀行が、金準備を確保するため、また、損失を埋め合わせるため、アメリカの銀行預金を解約して金に替えたのである。
連邦準備はこの金所有権の国外流出に古典的手段で対応した。
連邦準備銀行は公定歩合を2週間に2%ポイント引き上げた。
大恐慌の中での金融引き締めは、狂気の沙汰だった。
では、ドイツの戦時債務に対するこのフーヴァー・モラトリアムの真の狙いはいったい何だったのだろうか。
フーヴァー・モラトリアムの背後には、国際的銀行家たちがいた。
ドイツはスポンジのようにアメリカの資金を待ち望んでいた。
この計画はフーヴァーが大統領になる前から開始されていた。
フーヴァーの大統領選出は、クーン・レーブ商会の重役であるワーバーグ兄弟の影響によるものであり、彼らが選挙費用を賄った。
その見返りとして、フーヴァーはドイツの債務繰り延べ(モラトリアム)を約束したのだ。
フーヴァー・モラトリアムはドイツを援助する意図で行われたのではなかった。
ドイツの戦争債務の繰り延べは、ドイツが再軍備の資金を得るために必要であった。
1931年に国際的銀行家たちは第二次世界大戦を期待しており、侵略者(ヒトラー)なしの戦争はあり得なかったからだ。
フーヴァーはまた、ロスチャイルド家の秘密代理人として、世界中のいろいろな場所で多くの鉱山開発を行い、ロスチャイルドの主要企業の一つであるスペインとボリビアのリオ・チント鉱山の管理者として報酬を与えられていた。
フーヴァーとエミール・フランク(ベルギーの大銀行ソシエテ・ジェネラルの重役)はベルギー救済委員会を組織して、第一次世界大戦中のドイツに食料を供給した。
大恐慌に対するフーヴァーの対策は以下の通りであった。
「ウォール街崩落のあと、彼は、実業界・労働界の指導者をホワイト=ハウスにまねき、協力を依頼している。実業界の指導者は、フーヴァーの要請をいれて、賃金水準を維持し、生産水準を引き下げないことに同意した。労働界の指導者も、ストライキをやらないと述べた。農業界にたいしても、農産物価格を適当な水準に維持するため、生産制限を自発的におこなってほしいと訴えた。しかし、これらの要請がいつまでも支持されるはずもなかった。すでにみたように、30年から生産は落ち込み、失業者が増大した。31年8月、USスティールが賃金カットに乗りだしてから、労使間の協調にも亀裂が生じ、労働争議が激発した。農業政策もさして効果はなかった。自発的な生産制限は、全国的規模で実施されたときにのみ効� ��を生む。しかし、個々の農民は、従来の所得水準を維持するには、むしろ生産の増加をはからざるをえなかったのである。
兄弟で逮捕ってのもなかなかいないと思いますよw
そろそろ元従業員のフクダさんを登場させてくださいよ。
飲み屋のクダラナイ写真はいいですから。